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広義の「ペールエール」はコークスの発明(ダッド・ダドリー、1620年頃)の後、1640年代頃から存在していたといわれる。それまで使われていた木や藁に比べ、コークスは麦芽の焙燥時の温度調整が容易であり、その結果、仕上がりの麦芽の色を容易に調整できた。18世紀に糖度計が普及すると、淡色麦芽の発酵性が濃色麦芽に比べ高い事が知られるようになり、ホップを効かせた淡色のストロングビール(オクトーバービール、ストックビール)に使用されるようになる。

1752年にジョージ・ホジソンが設立したボウ醸造所はポーター専門の醸造所であったが、東インド会社の埠頭の近くという地の利を活かして船員達にポーター(後にオクトーバービールも)を販売していた。18世紀の末にインドにおけるオクトーバービールの市場が拡大すると、醸造所は東インド会社を介さずに直接販売する方がより多くの利益を生むと考え、取引の条件を彼らにとって有利なものに変更する。これに対抗する形で東インド会社の役員マーチバンクス(Marjoribanks)は、バートンの醸造業者オールソップに、ホジソンに対抗するインド市場向けビールを造るよう提案する。当時、ナポレオン戦争によるバルト海貿易の制限やロシア政府が英国のエールの輸入に課した巨額の関税に伴うロシア市場の喪失に苦しんでいたオールソップはこの提案に乗り、醸造技師ジョブ・グッドヘッドが新しいペールエールを開発した。

1823年、オールソップのペールエールが初めてインドに送られると、これに追随するようにバス&ラトクリフ(1777創業)、トーマス・ソルト(1800~)がインド市場向けにペールエールの醸造を開始。バートンでホジソンに対抗して造られたこれらの淡色の苦みの効いたビールは、当初は様々な名前で呼ばれていたが(Pale Ale as prepared for Indiaなど)、1830年代後半には「インディアペールエール」あるいは「イーストインディアペールエール」の名前で知られるようになる(1835年、リバプール・マーキュリー誌上の広告でホジソンのビールに対し初めて「インディアペールエール」の用語が使用される)。硫酸カルシウムが豊富なバートンの水はペールエールの醸造に適しており、バートンのペールエールがインド市場で人気を得た一方、ボウ醸造所の輸出シェアは、1832~1833年に28%、1841~1842年には6.5%まで下がり、輸出における優位性を失ったホジソンは1840年代にはインド及びアジアから撤退する事となる。

さて、バートンで開発された「インド市場向けのペールエール」が「インディアペールエール」の起源である事は既に述べたが、ウィリアム・ロフタスの著書「The Brewer: A Familiar Treatise on the Art of Brewing」(1856年)によると「国内市場向けのビターエールはインド輸出向けのものと比べ苦味とアルコール度数が低い」とある。即ち苦味が少なくアルコール度数の低い国内市場向けの製品が流通していた事が分かり、これが現在の「ペールエール」の起源と考えられる。

余談であるが「ホジソンは東インドの気候に特に適したビールを開発し、インディアペールエールの名の下、インド市場を独占した」という主張は、William Molyneaux の1869年の著書「Burton-on-Trent : Its history, its waters and its breweries」によるものであるが、オクトーバービール(ストックビール)が東インドの気候に適したビールとして開発された事実は無く、先述の通り「インディアペールエール」の表現が使用されるようになるのはホジソンがインド市場における優位性を失った後の事であり、この主張には根拠がない。

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